はぐれる倫理

二週間に一回くらい書きたい。

滑稽な瞬間にときめく

 

 畢竟、おもしろい人が好きなのかもしれない。
 
 テレビを見ていたら、女性のお笑いコンビが出演していた。ボケのほうが憧れだというプロレスラーを紹介すると、その選手がスタジオにサプライズ登場した。芸人から抜けの良い叫び声があがる。

 プロレスラーから視線を逸らし、身体を硬直させる。相方やMCに近づくよう唆されてもそのまま。アッ、ワッと短くうわごとを上げ、カクカクと動く。スタジオが笑いに包まれる。
 

 見ながら、この人かなりかわいいなと思った。気持ち悪い話だが。これは単に愛らしいからなのか、もしくは滑稽なところを見たいサディズム欲求なのか。
 

 

 哲学者・ベルクソン著の『笑い』は、可笑しみの源を機械的なこわばりと定義する*1。人間が機械のように、柔軟性のない四角四面な動作をするとき、可笑しみが生まれる。芸人の動きはまさにそれだった。
 
 ベルクソンは可笑しみを誘うものは非社会的だと言う。愉快な動きは社会においてなかなか見られないーー自分のような生活ならなおさら*2ーーので、そこにドキッとしたのかも。教師が噛んで苦笑いしてるときみたいに。社会から逸脱したものにロマンを感じている、とかも言えそう。

 


 あるいは、いけてないやつを幻視して共感したのか。

 硬直した所作や濁った喋り方は、いけてないやつを連想させる。件の芸人は明るく社交的な方だが、そこに自分みたいなやつの錯覚を見たのかもしれない。自分はもともと陰気な人が好きだったし、そこにナルシシズムの影もうすうす......
 
 すみません、やっぱ考えるのやめます。

 

 


 

*1:結構大雑把な要約

*2:

shirokurotosya.hatenablog.com

鏡に映ったもの - 無気力から高慢へ


 洗面鏡を見る。真顔の人が映る。前髪は目元まで伸びて、肌が荒れている。これが自分なんだと思う。それがうまく飲み込めない。

 思考したり感情を受け止めている"これ"と、この人は同一である。うーん、ピンとこない。

 

 自分はいつもボーッとしている。時間も場所も問わない。この場にいる自分から思考が離れて、ぜんぜん関係ない妄想をしている。

 気分のいい環境を夢想するときもある。陰鬱な情景を捏ねくり回すときもある。自分もそれに引きつられて、ウキウキしたり塞ぎ込んだりする。
 最初の乖離は、この集中力の無さが引き起こしているのでは?

 


 なんとなく、他者と接していないのも原因じゃないかと思う。ひとのあいだと書いて人間と読むように、「自分」というのは誰かとの交流によって形を持つ。今の自分は霧みたいになっているのかも。

 家族以外と最後に喋ったのはいつだろうか。たぶん数年前に友達と会った時か。その日は普通に遊んで、そこからバッタリと会わなくなった。原因は今でも覚えている。散髪に失敗したからだ。

 なにかの比喩ではない。本当に、散髪に失敗しただけで会わなくなった。少しの気恥ずかしさでこうなるんだから分からないものだね。

 現実はおろか、ネット上でも他者とうまく話せない。SNSは数年ほど書き込みをしてなくて、5ちゃんねるでも基本的にROM専だ。今みたいにアップロードをするのは本当に久しぶり。

 


 他者とまた喋るにはどうすればいいのか。数年の間に、自分の口は施錠された。内向性が強まり、他者のことが具体的に想像できなくなった。口は物理的にも塞がれている。まだマスクを外せないのだ。

 とにかく会話してみるしかないのは分かるが、怖い。正直に言うと億劫でもある。今の形のまま室内に張り付いて、そのままでいたい自分もいる。

 

 交遊に限らず、自分は気力がうすい。たしか二~三年前か、無気力になった日が明確にあった。数日ほどやる気が起きず、地続きに今日になる。
 防衛機制が働いたのか、高慢になった気がする。他人を審査眼で見ているというか。なにか手ごろな高尚を纏いたいと思ってしまう。

 

 

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 以上、思考を外に刺したくて書いた。
 願わくばなにか糸口になるように。